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自転車とお菓子作り

すこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日

すこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日が過ぎ去ったのだ。

ーー『イワン・デニーソヴィチの一日』

 

日曜日にトレーニングをした翌朝はたいへん気だるい疲労感とともに目が覚めた。月曜日は休息日ということで風呂にだけ入りにジムに行った。火曜日の夜はトレーニングを行った。一日おきでトレーニングをやっていこうかと思うのだが、仕事でできなかったり、疲れが残っていたりで、だらだらとしたものになりそうではある。でもやらなかった頃よりは体調もいいので少し続けてみたい。

平日の夜はけっこう人がはいっていて、日曜日よりも人が多い感じ。ウォームアップをトレッドミルでやるつもりが、全てのマシンが埋まっている。しょうがないので外周のランニングコースを実走する。脇腹が痛くなる。ストレッチ。筋トレはパスしようかとも思ったが、とりあえずやる。有酸素運動はバイクマシンで30分。ストレッチ。終了。

 

ソルジェニーツィンの、ソ連時代の悲惨きわまる強制収容所での一日を淡々と克明に描いた小説『イワン・デニーソヴィチの一日』がとてもよかった。収容所で囚人たちは過酷な労働を強いられもするのだが、意外にもというか生き生きとした働きぶりを見せるのがとてもいい。

ただそうはいっても「労働」というのは本質的に「罰」なのだ。ただ日々の糧を得るために仕事をしているのであっても、まるで刑に服しているかのように苦痛を伴うことは多々あるし、どこかに収容されているかのような不自由さに息が詰まる、そんなのはよくあることだ。というか私の一日がそれである。

けれども、「こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、三千六百五十三日あった」というイワン・デニーソヴィチの収容所での一日が、上に引用した一文で結ばれているのがたいへんに私の胸を打つ。これほど絶望に塗りこめられた閉塞感のなかで、なに一つ幸福な要素など見あたらない時間を過ごしたあとで、それでも憂鬱にならなかったというそれだけのことでささやかな幸せの実感を噛み締める瞬間は、ああ、たしかに私にも覚えがある。そしてこれから何日と続いていくのか分からない私の「刑期」のなかで、眠りにつくまえに一日をそう振り返ることのできる夜はどれほどあるだろうか。